コラム① 大野ゆたか、まんが人生のはじまり

ときわ荘前路上で、ときわ荘の住人漫画家たちと記念写真
上段右から石森章太郎 伊東章夫 高井研一 大野ゆたか 横山孝雄 長谷邦夫

下段左から赤塚不二夫 よこたとくお 三名不明

鉄人18号、怪盗紳士ルパン 奇岩城、水晶の栓、の作者の大野ゆたか先生の漫画人生を語るコラムです。

「怪盗紳士ルパン 水晶の栓」巻末掲載分より

少年マガジンで週間連載 

~大野ゆたか創作ノート~3

 

※)鉄人18号 著 大野ゆたか 巻末掲載、僕が漫画を始めた頃~大野ゆたか創作ノート~

令和元年5月15日復刻版発刊

※)怪盗紳士ルパン 奇岩城の巻 著 大野ゆたか 巻末掲載 少年マガジンで週刊連載~大野ゆたか創作ノート~ 令和元年11月30日復刻版発刊 

 

 今回は、再び大野ゆたか氏ご本人から、彼が漫画を描き始めたデビュー当時に遡り、そこから青年時代を振り返っていただき、画歴のエピソードをまとめ直して、再掲載しました。

 令和元年、アップルBOXクリエイトから大野氏のコミックス作品の復刻が開始され、大野氏自身が、今回再版されたコミックスを改めて読み返す機会を得て、青年時代の記憶を思い出されたエピソードも多く、時系列の前後関係で不明確な部分は、氏の奥様に記憶を補足していただき、「創作ノート」は第3回目にして、徐々に当時の執筆履歴の鮮明な形を取りつつあります。

 そこで今回の創作ノートは、大野氏がまとめ直した昭和31年からの漫画人生のスタートに立ち戻って、もう一度執筆履歴を整理して、まとめ直す形を取らせていただきました。

 

 大野ゆたか(本名 豊)は昭和13年九州佐賀県唐津市に生まれる。

 小さい頃から漫画、アニメ、映画の大好きな創作少年だった。

 昭和31年高校卒業後、18歳の時、彼はそれまで自宅で執筆していた漫画サンプルを手に上京する。

 そこで彼は世田谷に住んでいた伯母の家にしばらく厄介になり、自分の作品を持ち込む先の出版社を探し始めた。

 その当時は、漫画は貸本屋全盛期の時代だった。

 その中で彼は貸本屋大手の中村書店出版部を訪問することにしたのだ。

 中村書店を尋ねると、そこにいた社長自ら大野氏の持ってきた投稿作品漫画を丁寧に読んでくれた。

 そこで彼は社長から直々に、大野氏自身の考えたオリジナル作品を描いて欲しいという依頼を受けることになる。

 高校を卒業したばかりで田舎から上京してきた青年に原作付きではなく、オリジナル作品を描いて欲しいと頼ませたのは、彼の原稿を見て、その実力を認めてくれたからの異例な発注に他ならないだろう。

 こうして彼は初めて貸本一冊のオリジナルストーリー作品描き下ろしを執筆するチャンスを自らの手で掴み取った。

 そこで彼は、故郷に戻り、そこでデビュー作の構想を練った。

 この頃、貸本で人気のあるジャンルの一つにミステリー物があった。

 他にも人気のジャンルは太平洋戦争物、スパイものなど幾つもあったが、大野は学生の頃愛読していたミステリー小説からヒントを得て、中村書店からの依頼はミステリーコミックの執筆に決めた。

 こうして出来上がったのがデビュー作「呪われた宝石箱」(昭和33年、128P)だ。

 この後、大野氏が貸本漫画作品で「怪盗紳士ルパン」を執筆、週刊コミック誌では漫画「少年探偵団」、漫画「わんぱく探偵団」などのミステリー色の濃い作品を多数手がけることになる原点がここにあった。

 「呪われた宝石箱」が出版されると、中村書店から数冊の献本が送られてきた。彼はその中の一冊を当時親交のあった同郷九州の漫画家松本零士氏にサインを入れて送り届けた。

 その後、数年が経過し大野氏は漫画の仕事が忙しくなり、結婚後、数回の引っ越しを経験した中で、記念すべきデビュー作「呪われた宝石箱」の初版本を手元から失くしてしまう。

 松本零士氏はこの時、大野氏から送られたサイン入りの初版本を大切に保管していた。

 後年、東京の出版社のパーティーで二人が再会を果たした時、大野氏は松本氏に自身のデビュー作を失くしてしまった事を残念そうに話した。

 その話を聞くと、松本氏は大野氏から寄贈された「呪われた宝石箱」を、快く返却してくれた。

 そのサイン入り初版本は、今でも大野氏の手元に大切に保管されている。

 そしてこれは今回の大野ゆたか作品の復刻作業の起点になった貴重な一冊でもある。

 これは、同郷だった二人の漫画少年の熱い友情が伝わって来るエピソードだ。

読者を招待した虫プロ主催の「漫画教室」にて。

手塚治虫氏の右から鈴木勝利氏、井上さとる氏(虫プロ漫画部チーフ)、大野ゆたか氏、鈴木氏は貝塚ひろし氏のアシスタントでもある。大野氏は虫プロ商品開発部チーフ。


 「呪われた宝石箱」完成後、出版社の社長は彼の次回作に他の漫画家が第一巻を描いた「鉄人18号」の第二巻の執筆を依頼される。

 その話を聞いて、大野氏は当惑する。

 その頃、横山光輝著「鉄人28号」が大人気に成り始めた頃のことで、社長からその仕事を聞いた途端、彼としては正直その仕事は遠慮したいと感じてしまうのだった。

 彼の考えは、既に中村書店から出版されていた「鉄人18号」の第一巻の著者に続きを書いてもらった方が良いのではないかということだ。

 社長に素直にそう訴えたのだが、何らかの事情でその人物に執筆が頼めなくなったというのだ。

 それらの事情を受け止め、社長からの直々の仕事依頼と言う事もあり、作品そのものが続きの二巻目とはいえ、内容は大野氏に自由に描いて良いと言われたこともあり、彼はその仕事を引き受けることにした。

 その条件として、大野氏はペンネームを変えて良いという許諾を取り付け「唐津ゆたか」とした。

 この作品に手を染めることで、彼は一緒に上京した同郷の漫画家仲間に対して、後ろめたい思いを感じていたからだ。

 大野氏はこの執筆にあたり、誰が描いたか分からない第一巻のストーリーには一切目を通さなかった。

 その為、第二巻の「鉄人18号」は驚くべきことに第一巻で描かれたストーリーと、全く整合性がなくなった。

 今回アップルBOXクリエートからの復刻の話の中で彼に、彼が描いた部分が当時の第二巻に相当すると伝えたところ、大野氏は50年以上前の記憶からやっとその第一巻の存在を思い出したようで、当時の事を語ってくれた。

 執筆を始めたは良いが、彼は第一巻は一度も読んだことがないため、絵ずらすら思い浮かばない。

 今回復刻にあたり、彼に編集部から、古本屋で発掘した第一巻のコピーを持って行った時も、「第一巻の絵はこうだったのか」と驚いていたのは、むしろ衝撃だった。

 (この第一巻の内容はこのエッセイを読まれている読者の方たちからすると、少し気になるところだろう。いずれ、アップルBOXクリエートから復刻される日を待とう) 

 大野氏は当時の自分が描いた原稿を、復刻版で改めて読み返しているうちに、その頃の気持ちを僅かに思い出して来たようで、我々に語ってくれた。

 その気持ちとはこうだ。

 この作品は出版後、読者の少年少女には大層評判は良かったのだが「28号」とのデザインの類似性が大野氏は当初から大嫌いだった。

 登場キャラクターのデザインは第一巻と同様に描かないといけないことは分かっていた。

 しかしその鉄人のデザインには、強い抵抗感を感じていたという。

 そこでもっと武骨で、鉄の感じを出そうと編集部から預かった設定に、多少の変更を加えたという。

 さらに彼は、「鉄人18号」を第二巻の冒頭で登場早々、溶解して破壊してしまうのだ。これには驚いた。

 それは倒叙的(回想形式)なストーリー構成で、ラストまで来ると冒頭部分が分かるストーリーの作りになっているのだが、大野氏の中にはとにかくこのロボットを溶かし、世の中から消してしまいたいという怒りの願望が強く燃え上がっていたことが伺える。

 彼の頭の中にもしこの話が第三巻に続くようなら「鉄人18号」は、大野氏が考えた新しいデザインで「19号」として、登場させるつもりだった。

 「鉄人18号」は昭和33年に中村書店に納品され、34年に発刊され、大人気を博した。

同郷九州の出身 松本零士と講談社のパーティー席での記念写真

 34年頃、漫画執筆の仕事も安定してきたと感じた大野氏は、同じ九州からの上京組の漫画仲間、高井研一郎、井上智(さとる)と3人で新宿河田町の8畳一間のアパートで共同生活を始める。

 その場所は現在の東京女子医大病院裏の坂下にあたる。

 大野は中村書店からアパートへの帰り道、街並みの向こうに建設途中の東京タワーが夕日に照らされていたのを印象的に覚えている。

 その時のタワーは、まだ真ん中ぐらいまでで、展望台の上部の鉄骨を組み上げている途中だった。

 日本は高度成長期の始まりの時を迎えていた。

 同じ頃、松本零士氏も上京し、本郷に移り住んだ。

 この頃はまだ二人の間には、深い交流はなかった。

 高井研一郎主催の「九州漫画研究会」には大野氏、松本氏、井上氏も所属していたが、二人はまだ、会う機会が無かったのだ。

 後になって「ときわ荘」に住んで、作品を描き続ける石森章太郎氏は「東日本漫画研究会」を主宰していた。大野氏、高井氏はそこに合流する。

 しかし井上さとる氏はこの会には入会せずに独自の漫画道を歩んでいくことになる。

 「東日本漫画研究会」は月に一、二回ときわ荘に集まっていたが、時間が経過していくにしたがって、各人がそれぞれ仕事が多忙になり、それに応じて会の集合の機会は減り続け、いつしか集会はなくなってしまった。

 「東日本漫画研究会」の会誌が18号を迎えた頃、大野氏の次の貸本が中村書店から出版される。

 「鉄人18号」の第二巻を納品した大野氏はそこで中村書店からモーリス・ルブラン原作の「怪盗紳士ルパン」のコミック化の依頼を受ける。

 昭和34年「怪盗紳士ルパン 奇岩城の巻」

 昭和34年「怪盗紳士ルパン 水晶の栓」とペース良く作品を描き上げていった。

 今と比べて資料の少なかった時代に、彼は突然編集長から小説版の「怪盗紳士ルパン」を渡され、そこからコミック化の依頼を受けても、どうやって描き始めたら良いか途方に暮れるばかりだった。

 大野氏は、ストーリー構成から、キャラクターデザインまで全て自分の双肩に委ねられたことを自覚し、まずはストーリーの構想から練り始めた。

 読者は小学生高学年がメインだ。

 そこで、登場人物の名前が全て外国人では全く親しみが持てず、キャラクターを覚えられないと考えた。

 それならばと、大野氏は舞台を日本に移し、登場人物を皆日本人にした。

 この頃、多くの貸本向けコミック化作品に海外の原作小説が使われたが、大野氏の様に若い漫画家が自力で、キャラクターを日本人に置き換えていくという作業が出来る漫画家は、なかなかいなかった。

 次に入り組んだ設定を、漫画の中で説明を極力少なくして、読者にすんなり分かってもらえるように、ストーリーを出来るだけシンプルにしようと、絵コンテを繰り返し作り替えていった。

 このように読者の視点に立って、子供達に楽しんでもらえるストーリー創りの努力を惜しまない大野氏の作業姿勢は、若年のうちから培われた。

 たいへん素晴らしい漫画家魂だった。

鉄人18号色紙

 昭和34年頃、高井氏、井上氏はそれぞれ独立し、アパートを借りた。

 大野氏も新宿若松町の高井氏が借りていたのと同じアパートに部屋を借りて、移り住んだ。

 その頃、小石川、本郷に住んでいて既に少女漫画雑誌の連載の仕事を始めて大忙しの松本零士氏から高井氏当てに、アシスタントの依頼が舞い込んだ。

 その時、大野氏も高井氏に同行し一緒に松本氏の仕事場に行った。

 大野氏は高校生の頃、九州に取材旅行に来ていた手塚治虫氏が原稿を旅行先に持ち込んで、ホテルで漫画を描いていた時に、同窓の井上氏と共にその仕事場に呼ばれたことがあった。その時に長崎の佐世保から高井研一郎も来た。

 手塚治虫氏は、原稿の仕上げが間に合わないと思い編集者と相談し、九州の小倉市(現在の北九州市)で新聞の4コマや、投稿作品などを書いていた少年漫画家松本零士氏に助っ人の連絡を入れた。

 松本少年は手塚治虫に会えると思い、すぐにアシスタントに駆け付けてきた。

 大野氏都合で帰らなくてはならなくなった時、彼の代わりに呼ばれたのが松本氏だった。

 松本氏とはその時の福岡以来の再会だった。

 

 大野氏は松本氏との再会を大いに喜び、進んで彼の作品制作を手伝った。

 その後数回に渡り、大野氏は松本氏の仕事場を訪れ、アシスタントを行った。 

 そこで彼は、将来松本氏と結ばれる少女漫画家の牧美也子さんや、高橋真琴氏などと知り合うことになる。

販売中の「怪盗紳士ルパン 水晶の栓」の書き下ろし表紙イラスト

 昭和35年、前年に創刊された週刊少年コミック誌「週刊少年マガジン」(講談社刊行)の編集長牧野氏がある漫画家宅で、たまたま大野氏の「怪盗紳士ルパン」を手に取る機会に恵まれる。

 牧野氏は、その作品を一目見て、少年マガジンに必要な漫画家だと確信した。彼はすぐに大野氏に電報を打った。

 その内容は「怪盗紳士ルパンを読みました。週刊少年マガジンの新人連載候補者の一人として、サンプル作品を是非書いて欲しい」と言うものだった。

 大野氏はそこで、サンプル作品を数ページ描き、それを牧野氏に提出した。

 大野氏はその切っ掛けから、すぐに週刊少年マガジンで戦記漫画「日の丸一平」の連載を始めることになった。この作品が大野氏の少年週刊誌デビュー作品になる。

 牧野編集長は、サンプルで渡された大野氏の作品の構成力、画力を高く評価し、当時聯合出版社(1956年創業、後に潮書房光人社に移行)から発刊された軍事専門雑誌「丸」の高城肇編集長に、大野氏の戦記物の原作を依頼した。

 貸本屋でも戦記物は大ヒットしていたが、軍事情報は少なく、リアルな戦記物漫画は週刊誌コミックスを見渡しても無い時代だった。

 そこに、軍事関連の専門誌の編集長が原作を書いてくれたのだから、光る作品になった。

 しかも少年週刊誌初の試みである。実際にあったガダルカナルの戦場で戦う少年兵が主人公である。

 「日の丸一平」はマガジンに4カ月ほど連載され、大好評を博した。

 令和のコミック連載感覚で考えると、4カ月の連載期間はかなり短いように思える。

 週刊少年誌が創刊された当時は、連載一作品のページ数は6Pから8pだった。それを毎週一人で描いていくので、漫画家は手一杯の状況になる時代だったのだ。

 コミック誌の連載も、最長で2年程、短いものは1か月程度の作品も多かった時代だった。

 昭和35年は、雑誌デビューと共に大野氏にとっては忘れられない年になった。

石森章太郎 が主催していた漫画同人誌「墨汁一滴」の表紙
赤塚不二夫など、その当時参加していた漫画家の名前が入っている。

 この年、大野氏は故郷の幼馴染の女性と結婚する。

 中学の頃からの長い付き合いが実り、やっとここに来て結ばれることになった。

 彼女は一歳年上の姉さん女房になった。

 大野氏が毎日週刊連載漫画の執筆に追われ続けているのを見ていた彼女は、すぐ大野の仕事の漫画のベタ塗りや、罫線引きの手伝いを進んで手伝い初めてくれた。

 大野にとっては、百万の味方を得た気持ちだった。

 同時に新婚生活の中で、最愛の妻と一緒に同じ仕事が出来る事に無上の歓びを感じていた。

 漫画など描いた事のない妻だったが、自分の仕事に理解を持って、手伝ってくれたことはとても嬉しかった。

 漫画の仕事は、こうして日増しに忙しさを増していった。

 昭和36年「日の丸一平」に続き、大野氏初のSFコミックス「少年ロケット隊長」が同誌で開始される。

 この年、宇宙に出るロケットを扱った少年漫画が、他の月刊誌、週刊漫画誌でも数本連載が始まる。

SFブームの奔りなのだが、どうした訳かまるで申し合わせたように、同じ月の号とか、前後一か月ズレた程度での「ロケット物」の連載のスタートになっていた。

 他のテーマの作品(例えば戦記物、大和とか)でも、この同時期連載開始の現象は見られた。

 別に雑誌社間にスパイが居て、同じテーマの漫画を競争で連載したのではなく、世情とか話題とかで漫画家が偶然に同じことを思い付くタイミングが重なったことが、その原因ではないかと思われる。

 出版界では、その後同じタイトルの本、企画がたまたま同時期に出版され、ぶつかる現象は度々起こった。

 そのうちに、読者諸氏もそれに特に違和感を持たないようになっていった。

 「少年ロケット隊長」と同じ時期「少年特急一号」(PN松原ひろし)の連載も始まった。

 この頃は、同じ掲載誌に一人の漫画家が2作品を連載する場合、一作品のPNを変えて、別人を装うというやり方を取る編集部が多かった。

 大野氏もこの例に漏れず、同誌に後から掲載が始まった「少年特急一号」の連載のPN名前を変えての連載スタートになった。

 そして同年、長男が誕生する。

 忙しい中で、大野氏は父になる喜びを感じていた。